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世にも絶妙な物語 第六話
2023年08月19日
= DAY TIME =
カタン。カタカタ・・・ガチャガチャ。(ローラー付きの舶来製の丸椅子が転がる音)続いて初老と思われる男の声。ここでは医師でございましょうか。
「総コレステロール319 トリグリセリド140 LDL-C183 グルコース356 HbA1C13.6% ほぼすべての数値が標準よりも相当に高いです。これではいくら北辰一刀流免許皆伝の腕前であろうとも、もう完全に剣士としての生命は断たれておるのと同じで御座います。重症糖尿病。病は菊一文字刀では斬れません。このまま行けば眼の底から出血して失明したり、脳内に血の塊が巡回して頭や心の臓が壊れたり、はたまた足先などが腐り落ちたりしてしまいましょう。とにかく緊急入院させねば御屋形様のお命にかかわります。御母堂様にもなるべくお早めにお伝えくださいませ。」
ガタン。椅子から立ち上がる音。その音は少し軽い。青年のものであろうか。
「な、なんと、父上がそのような病に侵されていようとは。かしこまりました。その旨、母上には伝えまして相談したく存じます。しかしながらどうしても腑に落ちませんのは先日、諏訪大社に於きまして父上と竹刀で試合を致しましたがどうにもかないませんでした。拙者の腕が未熟なためとは存じますがあの太刀筋、父上の剣士としての生命が断たれておるとはどうしても思えませぬ。それはまごうことなき事実でございますでしょうか。」
若い青年の困惑した声。年の頃は元服は超えているだろうか?未だあどけなさを含んでいる。
「そこでございます。」
カチャカチャ。電算機を操作する音。カチン。
「勿論、おっしゃいますその太刀筋もまた事実で御座います。つまりは1日1日劣化していると解釈すれば宜しいでしょうか。それでは逆にお尋ねしますが、北辰一刀流免許皆伝の腕前の御父上が、お稲荷様の御前で乱波ごときのくノ一に真剣で斬られたのはどういったわけでございましょう。本来の力量であるならば、例えば千人掛かりであろうと御父上は乱波などには斬られませぬ。」
ガチャ。カラン、ガチャン。大小がまとめて掴みあげられる音。
「残念至極。母上と相談の上、再度来院致します。緊急入院を希望します由、何卒どうか父上を宜しくお願いいたします。」
若き侍は去り際の一礼する少しの間を置き扉を閉めてパタンと診察室を去った様子。それがしの意識は戻ることなく、そのやりとりが夢か現かもわからぬまま。そして戦慄の夜が訪れるので御座います。
= NIGHT TIME =
コツ、コツ、コツ・・・遠くより人の歩く音が聞こえます。どのくらいぼんやりと横になっておったのかは全く分かりませぬ。ただ、気を取り戻したときにはおそらくここは医療機関で、それがしは入院していると言う事は薄々とした記憶と申しますよりも「感覚」と言う水準で存じ上げておりました。天幕でひとつひとつ間仕切りされたこの寝床は「ベッド」と云ふ蘭方医療用の簡易宿泊用具だとの認識は御座いました。しかしながら天幕のお陰様をもちまして、それがしの周りにはいくつの寝床が設置されておるのかも何名の人が同じように床に臥せっておるのかも一切知る事の出来ない環境で御座います。周りに人の気配は皆無では御座いましたが。遠くより聞こえてくる足音は次第に大きくなっております。どうもその足音は、それがしの元に向かって来ておるようで御座います。時の頃はかなり夜も深いかと存じます。とにかく凡そその時間に人間は行動するようには出来ておらぬような時間で御座います。
ふと、始めは等間隔で聞こえておりましたその足音がそれがしの枕元に近づくにつれてコツ、ココツ、コ、ツコツ、コココツコツツ、ココツ・・・と不規則に崩れて変化するのを感じたところで、それがしも完全に正気を取り戻しました。此の歩く音はもはや、人のものでは御座いません。二足歩行をしておりませぬその足音、六足、十足、いやもっとでしょうか。気配を殺し上体を起こします。斬られたはずの右腕は信じられませぬが全くの無傷。それがしは上げ床式(西洋式)の床に臥せっておった事も横になりながらぼんやりと理解しておりましたので、先ずは物音を立てぬように気配をじっくりと空間に落とし込みます。周囲の視界を遮ってくれている天幕にこの時ばかりは感謝いたしました。寝床の上にしゃがむ。感じておりますのはこの世ならぬ禍々しき気配。息を完全に殺して目先を見ます。「あった・・・」武士の魂が大小揃えて枕元の位置に立てかけて御座いました。この置きようは稔之介、我が子よかたじけない。菊一文字は父が枯葉のように朽ちた後は何としてでもお前に引き継ぐ。したがってそのためには今この瞬間も、それがしに向かってくるこの世ならぬ禍々しき気配を打ち砕かなければならない。
コツ、ココツ、コ、ツコツ、ココ・・・足音はもうそこまで来ております。無音で、抜く。小さな足元の非常灯だけの光量しか御座いませんが、そのカンデラを菊一文字は集めてぬらりと光ります。同時にそれがしの全身にみなぎる自信。両腕に感じる刀の重量、勝てる。不規則な足音と足音の隙間、止まった無音の瞬間を狙います。ココツツ、ココツコツ、コ、ツコツコツ、ココツツツ。コツ。コッ。。。それがしの寝床の正面より二間ほどで足音は停止しました。隙あり。逃しませぬ。
「キェエィィオ、アオコテオコテオコテェエエエエエィ!!!(お甲手、甲手打ち)・・・なんとっ!!!」
天幕の中から禍々しき気配の中心に向かって突き気味に思い切り飛び掛かり、菊一文字を右上に払えばなんと破れる天幕と共にバラバラッと幾本ものこげ茶色の管のようなものが宙に舞いました。それぞれが細い糸のようなもので繋がっており、炒った豆のような、それはそう、舶来製の珈琲と言う極めて甘い香りにもかかわらず苦い茶の香りにも似た異臭が周囲に漂いますれば、それは目の前の弓なりになって天幕を巻き込みながらバタバタとのけぞって苦しそうにのたうち回る、人の身の丈ほどもあろうかと言う大きさの巨大なムカデの体液の放つ悪臭で御座いましょうか。ムカデと申しますかもっと言いますとヤスデと言うムカデよりも小さい普通は半寸ほどの虫で御座います。ゴロゴロっとそれがしが斬った巨大ヤスデの腕のようなものが転がり、隙だらけでございます。逃しませぬ。思い切り巨大ヤスデの頭部から腹部にかけて袈裟切りに致しました。この世ならぬギュウッギュウと異音、怪音をたてながら数秒。切り離されたふたつの物体は両方ともほぼ同時に天幕を巻き込みながら動かなくなりました。それがしは「とにかく刀をきれいにしたい」と思い先ずは残りの天幕の切れ端にて菊一文字を応急的に拭い寝室を後にしたので御座います。
半世紀も侍をやっておりますと本当に様々な相手と命のやり取りを行う事になるので御座いますがこのような化け物を斬る事になろうとはそれがしも全く予測する事能わず、よもや剣術の北辰一刀流や示現流がこのような化け物に通用する事には感極まる事しきり。人外のものを斬ったのは過去に一度、あざみ野の四里ほど手前辻にて数匹の野犬と二人の野党にそれがしの細君が襲撃された折、叩き斬った野犬が最後でありましょうか。あの時は極論、人外と申しましても所詮は犬ころでございますのでどこを斬っても撃退するには容易でございましたが。一体この目の前の化け物にとどめを刺すには追撃でどこを斬ればよいかも皆目見当がつきませぬ。以前どこかの山寺にてフナ虫の化け物を斬ったと言う話を聞いたことが御座いましたが、あれは南総里見八犬伝で御座いましょうか。今しがた袈裟切りにした目の前のこやつがまるでその八犬伝に現れます伏姫に仕える忠臣達を行く先々で阻む悪女フナ虫の表現のままで御座いました。
はてさて診療所付きの病棟内にてこのような状況。それがし病室の入り口から外へと向かいます。世にも絶妙な物語に於ける戦慄の夜はこれからで御座います事は重々承知の上に御座います。
第七話に続く